色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年を読み終えて

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』

村上春樹の13作目の長編小説で2013年に初版が発行された。2015年12月に文庫化され、その時読んだのが最初だ。あれから4年してもう一度読み始め昨日今日で読み終えた。

この本を初めて読んだ時僕は感動した。こんなにも綺麗な文章を書く人がいるのか、と。僕は子供の頃から結構本をよく読んでいたが、恥ずかしながら村上春樹はその時まで読んだ事がなかった。ノーベル文学賞取るとか言われながらずっと取れてない人、くらいの認識だった。そんな僕がなぜこの本を手に取り買って読んだのか今となっては思い出せない。けど、本当に感動した。その本を読み終わってから村上春樹の本を全て読み漁るくらいに感動した。

大学2年生の7月から、翌年の1月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬ事だけを考えて生きてきた。

まず小説の始まり方に衝撃を受けた。そしてその衝撃に劣らない濃い中身。自分と周囲の人達を比較し、これといった特徴がない自分に自信が持てない多崎つくるが色を使って描写される。人称と時間軸が変化しながら物語は進んでいき、その中で自分の存在意義を探しながら、最後には死ぬことになるとしても躊躇わない多崎つくるの構想シーンでエンディングとなる。

今読み返して思うのは4年前の当時の僕はあまりこの本の本質を理解できていなかったということだ(今も完全に理解できるとは言い難いが)。文章が綺麗、多崎つくるは心に深い悲しみと絶望を抱えている。それでも尚生きようとする。4年前の僕の解釈はこんなものだ。

 

今回読み終えた後僕が思ったことは、多崎つくるのような事情は誰にでも起こりうるという事だ。多崎つくるは大学2年生の時に突然親しくしていた4人の友人から一方的に拒絶され、絶交を告げられ自信を失ってしまった。確かにこのようなシチュエーションは現実的ではない。けど、なんらかのアクシデントが発生して、自信を失う時は人間誰にでもある。その失った自信のまま、再び自信を失うような出来事に遭遇したらどうなる?自分1人じゃ簡単には立ち直れない。周りに助けてくれる人が誰もいなかったら?それはもう死だけを考えて続けて生きてきた多崎つくるに限りなく近い状態になっていくのではないか。

人間は弱い。だから自分の存在意義を周りに求める。自分はあのグループに所属していてあの役割を果たしているとかを無意識に感じて生きている。それが急に切られたらどうなるのか。急に自分の存在意義を感じられなくなってしまう。多崎つくるの場合、拠り所として5人のグループが占める比重が大きすぎたが為に大きな悲しみと絶望を受けた。そして自分のなにかが悪かったのだろう、そもそもなぜ彼らはこんな自分と付き合ってくれていたのか、自分がいない今彼らはうまくやっていることだろう、更には誰かと親しくしても自分から何も与えられないと考えてしまうようになった。

 

自分の存在意義を保つには他を気にせず絶対的な自分を持つ強い人間になるか、周りに求めるかのどちらかしかない。存在意義を失う事は誰もが怖い。けど絶対的な自分を持つことは誰にでも出来ることではない。だから誰もが周りとグループを作り自分の存在意義を保つ。いいのではないか、それで。人間は1人では生きていけない。弱いことを認めみんなで助け合いながら生きていけば現実の世界に多崎つくるを生み出さなくて済む。人と人との繋がりは大事だ。

村上春樹がこの作品を通して何が言いたかったのか、何を表現したかったのか、正しいことはわからない。もしかしたら彼自身もよくわかっていないかもしれない。ただ、今の僕の解釈はこういうものである。

また、数年後ふとした時に読みたくなるかもしれない。そしたら自分はこの小説をどのように解釈するのか。少し楽しみだ。そしてそういう風に考えさせてくれる小説を書く村上春樹、僕は彼の一ファンとして感謝したい。